故・清水恵を偲ぶ集いは、2005年2月19日、『挑水』編集委員会の主催により実現しました。

『挑水』というのは「地域の情報を語る会」が発行する雑誌で、現在まで2号(2003年、2004年)が出版されています。故人はこの両号ともに寄稿しており、生前は編集委員会のメンバーでもありました。同会の代表である桜庭さんは「『(追悼会の開催が)少し早すぎる』という意見もあるかもしれないけれど、わたしの身体が元気なうちに、と思いましてね!」と仰って、わたしをこの集いにお招きくださいました。(右画像:『挑水』)

わたしがお招きいただいたのは、故人に近い友人の一人であったからですが、実はこの他にもう一つ理由がありました。桜庭さんは、わたしが日頃、東京都内を中心にブルースの演奏活動をしていることを知り、故人の追悼会でわたしが歌うことを思い付かれたのです。桜庭さんはこの数カ月、この「集い」のためにさまざまな準備をして、わたしの到着を待っていてくださいました。

会場はJR大沼公園駅からすぐの「旅荘 茶色い鳥」。階段ホールには函館市在住の木版画家、佐藤国男の作品が多数飾られ、清楚でアットホームな旅荘に独特の雰囲気を添えています。オーナーの目黒さんご夫妻は「集い」の中でピアノとサックスのデュオ演奏を披露してくださることになるのですが、この日は会場の準備や軽食の用意などでさぞやお忙しかったことでしょう。また、ご夫妻は「あうん堂」という屋号で大沼産淡水魚の加工販売もなさっています(わたしたちは皆、ワカサギなどの詰め合せをお土産にいただきました)。この日の午後、やはりここで開かれていた「地域の情報を語る会」第19回茶話会も終わり、「集い」だけに参加する方々も三々五々来場し、さてさて、「集い」はとにもかくにも、夕方5時15分にスタートの運びとなったのでした。(左上画像:「茶色い鳥」同旅荘のHPより転載)

司会進行は主催者を代表して桜庭さん。開会の辞のあと、桜庭さんの合図で参加者全員による1分間の黙祷が行われ、さらに、鎌鹿さんによる挨拶と献杯(全員で唱和)、倉田さんによる安井さんからのメッセージの代読と続きます。鎌鹿さんは長年、市民の立場から社会的に影響力のある活動に関わっていらっしゃいます。また、倉田さんは函館市役所職員として故人の同僚でもあり、来日ロシア人研究会の同人でもあります。また、メッセージをお送りくださった安井さんは、たびたび大沼で夏を過ごされるほどの大沼ファンですが、それはすべて故人が縁であったことをメッセージの中で詳らかにしてくださいました。(左上画像:開会挨拶、中上:献杯、右上:メッセージ代読風景)

そして、ここで司会者よりわたしの紹介がありました。いつもは「あがる」ということもあまりないわたしですが、この時は急に、何とも居心地の悪い感じがしました。というのも、もともと酒と紫煙と喧騒の中で行われてきたエンターテイメントとしてのブルースが、その場の雰囲気にあまりにもそぐわないように思われたのです。また、サポートメンバーを持たず、わたしの生ギターと肉声だけが静まり返った会場に響きわたるであろうことに気後れしたからです。「大道敏子さんのブルースを聴きながら、清水恵さんを偲ぶ会」という垂れ幕(バナー)に圧倒されそうです!とはいえ、戦線離脱するわけにはいきません。とりあえず、ブルースナンバーとしては比較的上品な「プリーズ・センド・ミー・サムワン・トゥ・ラブ」でスタートし、故人との縁などを少々お話させていただきながら、事前の打ち合わせどおり3曲歌いました。(右画像:歌う筆者、ペンダントは故人から譲り受けたもの)


(参加のみなさんの一コマ一コマ。まだ飲食前という事情もあり、表情はやや硬い?)

わたしの演奏の後は、故人との想い出などを3名の方々が順番にお話してくれました。まずは、地元大沼で魚業を営む宮崎さん。大沼を愛した故人は、比較的体調のよかった闘病中のある夏の日、夫正司さんの運転で念願の大沼を訪れたことがありました。宮崎さんは「随分痩せたようだけれど、そのときはそんな大病とは思わなかった」と、深く美しい声で話してくださいました。わたしはこの大沼ドライブの話を、生前に彼女から直接聞いたことがありましたが、「大沼では大好きな人に会えた」と言って喜んでいたのを思い出します。その人が宮崎さんだったのでした。(左画像:宮崎さん)

次に菅原さん。故人が函館市史編さん室に勤務するようになったときからの職場の先輩であり友人です。そもそも、市役所職員に採用されてすぐに「青年の家」に配属されていた彼女を、市史編さん室へ転属させるべく推薦した一人だったと聞いたことがあります。闘病中も、陰ながら、いつも彼女を見守ってらっしゃった菅原さんは、声を詰まらせながら故人との想い出、故人の人となりなどを語ってくださいました。(右画像:菅原さん)

そして、三番目に築田さん。函館市東山地区のごみ問題を、住民・市民参加によって解決すべく活動されています。この築田さんが地元のニュースで取り上げられたとき、たまたまニュースを見た故人が「あれ、この人、知ってる人のような気がする...」と言ったのがきっかけで、実は、二人が森中学の同級生であったことが判明したという経緯があります。互いに結婚による改姓で、同じ雑誌に寄稿していながら、それまで気がつかなかったのです。結局、二人は互いに顔を見合わせて名乗りをあげるチャンスがないままに終わってしまいましたが、「不思議な縁であった」と築田さんは仰いました。(左画像:築田さん)

三人の挨拶が終わって、「茶色い鳥」の目黒夫妻が登場。ご夫婦の睦まじいデュオで3曲スタンダードナンバーが披露されました。これには参加者みなが大喜び。あっというまに持ち時間が終わってしまいました。「アンコール!」の掛け声もあったのですが、夫妻はオニギリや味噌汁、串カツとから揚げ、サラダとハム、そして飲み物をこの後すぐに給仕しなければなりません。「またの機会に」とご辞退されました。この間、参加者が持ち寄った一品料理やお菓子、飲み物などもテーブルにところ狭しと並べられ、会場内の温度は少しづづ、着実に上がっていくようでした。気がつくと、遺影の前にもビールとオニギリがお供えされていました。


(目黒夫妻の演奏に引き続き、和やかに会食。みなさんの顔に笑顔が見えはじめる)

美味しい料理とお酒ですっかりくつろいだ「集い」は後半へ。函館市の公民館で行われた地域の歴史に関する講演会で、故人の講話を聞いて感激したという高田さんのスピーチの後、進行役に徹していた桜庭さんがハモニカを取り出して、メドレーで懐かしい唱歌を演奏。郷愁に満ちたハモニカの音色でいっそうリラックスした会場に、今度は故人の懐かしい声が流れました。数年前の「地域の情報を語る会」第1回茶話会のときの、非常にカジュアルな彼女の談話を録音したものでした。久しぶりに聞く彼女の声は、在りし日の彼女を想起させます。ちょっと不器用に、息をつまらせるようにして話す話し方を、そして、それは彼女がいつも相手の反応を気にしているためだったということを、わたしは思い出していました。わたしはこの後、ブルースの特徴などを少々説明しながら、そして故人との間柄などをさらに話しながら、また3曲歌いました。予定された時間はゆったりとに過ぎてゆきました。


(左画像:高田さん、中:桜庭さん、右:会場全景)

「集い」はいよいよ終盤へ。司会者から最後に1曲と乞われて、わたしは「君のともだち」を歌いました。これはブルースナンバーではなく、キャロル・キングの1971年の大ヒット曲です。故人もわたしも昔から好きな曲でした。「つらいときにはわたしの名前を呼んでね。わたしがいつでもどこでも会いに行くよ。」という内容ですが、これを昨年、彼女の病床で歌い、二人して泣いてしまったことがあります。以来、わたしにとっては忘れられない曲なのですが、夫の正司さんには辛すぎる想い出になっていたのかもしれません。正司さんがずっと俯いて鼻を押さえているのは歌いながらわかっていました。歌い終わると、みなさんからたくさんの拍手とすてきな花束をいただきました。(右画像:厚谷さんから花束を受ける筆者)

最後は夫、正司さんからの挨拶でした。妻の闘病生活中のその一途な献身を、そして、妻を亡くしたときの深い落胆を知るわたしたちにとって、正司さんの「その後」はとても気になることでした。わたしはときどき、故人の女友だちから彼の動向を尋ねられてもいました。彼の心の裡は、もちろん、計り知れませんが、わたしは4ヵ月ぶりに再会した彼の穏やかなスピーチに軽やかな心持ちがしました。(左画像:正司さん)

大きな拍手に包まれて、「偲ぶ集い」は幕を閉じました。とはいっても、殆どの参加者はそのまま残り、各々の時間がゆるす限り語り合いました。帰り際に「今夜のお礼です」といって「野ばら」をドイツ語で独唱された古俣さん(「地域の情報を語る会」初登場)、お話を伺ってみると故人の大学の後輩であったジャーナリストの中川さん、花束を持って駆けつけてくださった滋子さん(故人の義姉)、故人の職場の若い同僚であった大竹さん、佐竹さん、黙々と裏方仕事をこなしてくださった奥野さん、山本夫妻、そして、見事な郷土料理を持参してくださった「大沼の水と緑を守る会」の方々。全員が帰路に就いたのは深夜近くでした。この夜、「茶色い鳥」に宿泊が決まっていた厚谷さん、山本夫妻、桜庭さん、正司さん、そしてわたしは3時くらいまでお喋りをしました。鎌鹿さんと中川さんは5時くらいまで議論されていたと翌朝知りました。

この「集い」に係わったみなさんに、この場を借りて、心よりお礼申しあげます。そして、わたしを冬の大沼にまで連れて行ってくれた、今は亡き最愛の友に、わたしの「ありがとう」が届くようにと祈ります。

2005年2月23日、東京にて、大道敏子
画像提供:『挑水』編集委員会

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